2010年度版、アップしました。(2011年1月15日)


by lunaluni

マリーナ号選・2009年度

●あの時、バスは止まっていた・高知「白バイ衝突死」の闇
 (山下 洋平著 ソフトバンククリエイティブ)

 冤罪の記録である、と言ってしまっていいだろう。それも現在進行形の。なにしろ罪を着せられたバスの運転手はこの文章を書いている時点で、まさにその冤罪により有罪の判決を受け”服役”中なのである。

 すべての科学調査や目撃者の証言は、”スピードを出し過ぎてコントロールを失った白バイが停車中のスクールバスに激突し、運転者の警官が死亡した”というのが事故の顛末であろう事を示しいる。
 が、警察は続々と捏造としか言いようのない穴だらけの”証拠”を提出して白バイ側の運行の正当性を主張し、裁判官もまたバス運転手側の主張をいっさい破棄、警察側の主張をそのまま受け入れ、”スクールバスが不注意から白バイを跳ね飛ばした”という方向の判決をくだす。まさに真昼の暗黒。
 裁判官の、「第三者の目撃証言だからといって正しいとは限らない」なる文言には唖然とするしかない。それならいったい、どんな証拠なら採用するというのだ。

 警察側は、裁判所は、そしてバス運転手を無実の罪に陥れて殉職者年金を受けているのであろう白バイ警官の家族は、この欺瞞が永遠に保持されると信じているのだろうか。いつか真実が白日の下に明かされた時、歴史はあなた方をなんと呼ぶのだろうか。それを考えた事があるのか。
 
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<春野の交通死亡事故:控訴審、即日結審--高裁で初公判 /毎日新聞>

 平成18年3月、高知県吾川郡春野町の国道で県警の白バイと生徒22人を乗せたスクールバスが衝突し、白バイ隊員=当時(26)=が死亡した事故で、業務上過失致死罪に問われている同郡内の元バス運転手の男性(53)の控訴審初公判が10月4日、高松高裁で行われ、男性はあらためて無罪主張し結審した。
しかし10月30日の高松高裁の判決で柴田秀樹裁判長は、証拠を捏造した疑いは全く無いとし、控訴を棄却した。
 バスの運転手と乗っていた生徒らの証言では、バスはゆっくりと停車し、反対車線の車の流れの切れ間を待っていたところに猛スピードの白バイが衝突したとあるが検察側はバスが右方向を十分に注意せずに横断、そこへ安全速度で走ってきた白バイが衝突し、その後3m引きずり急ブレーキで停止したと主張した。
 しかし検察の挙げた証拠には、バスのタイヤ痕と見られる証拠写真がきわめて不自然であり、また事故直後の写真のバイクの破片の位置が衝突地点に無いなど、不審な点が多く、証拠は警察により捏造されたのではと問題となっている。

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●「芸能と差別」の深層 (三國連太郎 沖浦和光 著 ちくま文庫)

 ベテラン俳優の三國連太郎と、「幻の漂白民・サンカ」や「竹の民俗誌」等々の独自の視点による著作が心に残る民俗文化の研究者である沖浦和光の二人が、抑圧され差別され、歴史の裏通りに押し込められた民俗芸能に関して心行くまで語り合った、なんとも濃厚な対談を収めた書である。

 三國の生い立ちや芸道に関わる打ち明け話に始まり、二人の対話は時を越えて縄文、弥生の日本の始まりから今日まで続く放浪芸の曼荼羅を語りおろす。
 対話のうちに浮かび上がってくる、名も知れない上代からの民俗芸能者たちの面影と足跡は、鮮烈な血の騒ぎを読む者に与え、人々が時空のうちに繰り広げた芸能誌の巨大な広がりと深さには改めて驚かされる。

 踏みつけられ社会の最下層に押し込められた人々が、太古より血を流し身を削るようにして編み上げてきた民俗芸能の鉱脈が、生き生きと二人の対話のうちから蘇り、脈を打ちはじめる。こいつはなんだか人間すべての魂の故郷への思慕の書、みたいに思えてくるのだ。
 
● ”愛と勇気のロック50 ベテラン・ロッカーの「新作」名盤を聴け! ”
 (中山康樹 著 小学館文庫)

 それにしても、どういうセンスのタイトルだ。もの凄く恥ずかしかったぞ、買うのが。かって”ジャズ名盤を聴け”なる書で、書店店頭で立ち読み中の私を発作的哄笑に叩き込んだ実績のある中山康樹の著書でなかったら当方、手に取る事もなかったろう。
 本書は、1950年代、60年代、70年代と言う、”ロックの黄金時代”に活躍したミュージシャンたちが世に出した”最近の新譜”ばかりが取り上げられている。奴等は”晩年”をどう生きているか?

 私のように”あの時代のロック”をリアルタイムで体験しながらもロックへの支持を途中でやめてしまった者にはこの本、興味深くもなかなかむず痒い気分のものである。
 本業がジャズ評論家である著者は、ジャズのファンが気に入ったミュージシャンをその生涯にわたって追い続けるのに対し、ロック・ファンはそうしないのをもったいないと感じてこのような本を書くことになったようだが。

 聴く事をやめてしまったものとして言わせてもらえばロックが”終わった”から聴くのをやめたのであって、もったいないといわれても困る。火の落ちた風呂桶に入り続けても、寒くなって風邪でもひくのがオチではないか。
 と、著者と読み手であるこちらの意識も微妙に食い違いつつ、それでもかって青春の血を滾らせて追いかけていたミュージシャンたちが今日、発表したアルバムへのきちんとした評をまとめて読めるのは興味深い。楽しんで読んだ、と言っていいだろう。それらアルバムを実際に聴く日はおそらく、来ないのだろうが。

 読んで行って感じたのは、彼らの人生は普通に続いている、ということだ。祭りの季節は終わっても、彼らはまたギターに弦を張り、スタジオに明かりをともす。それがつまり、ミュージシャンというものだから。ジャニスやジミのように都合よく夭折し得た者は少数派なのだ、言うまでもなく。
 そして私は、出る気持ちもない同窓会の案内状に目を通すような気分でこの書を読み終える。著者と評論家の坪内祐三の巻末対談には「ロックの最後を見届ける50枚」とのタイトルが付されてあった。
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by lunaluni | 2010-01-09 22:55